 |
|
|
|
 |
ジョン・F・ケネディ国際空港は3回利用させてもらった。前回に述べたように成田から最初に降りたのがケネディ空港。国内線への乗り継ぎはうまく運んで、その日のうちにボストンへ到着。娘の家で、10日間滞在の後、ニューヨークを見たことがないという娘の長女を伴って娘が私達に同行し、5人でニューヨークに向かった。
ボストンからは、TWA(トランスワールド航空)に乗り込んだが、今では珍しいプロペラ機で約30人乗り。機内は貨物機の床にシートを取りつけたようなもので、コックピットは正副二人のパイロット。太った小さなおばさんがスチュワーデス。チケットの点検回収から案内アナウンス、飲物のサービスまで何もかも一人でこなす。なにか40年前に戻ったような異様な感じであった。しかし、フライトは順調で定刻にケネディ空港に無事到着した。
|
|
★
|
ニューヨーク/ジョン・F・ケネディ国際空港。ここで、この巨大空港の概要を記しておこう。
それは想像以上のものであった。まず空港敷地の中央に円形のバス周回道路があり、ひっきりなしに巡回バスが旅行者を運ぶ。もちろん無料。周回道路の外側には発着ゲートのあるターミナルが放射状に9ヶ所配置され、それぞれに少ない所でも30、多い所では60ものゲートがある。関西国際空港が60ヶ所だから、この周回道路の外側に関西空港規模のターミナルが5つくらいあるものと理解してよいだろう。ちなみに成田国際空港はこのターミナル2が完成したので、収容力は倍になったはずだ。ターミナルを結ぶ巡回バスは一周するのに約30分かかるから、その広さが想像できるだろう。
|
|
★
|
さて、このケネディ空港に無事到着したと記したが、ここから小さな、しかし私達にとっては大きなトラブルに巻き込まれることになるとは想像もしていなかった。
空港に到着した乗客は、荷物引渡所に向かって少しでも早くと急ぎ足で歩く。
老境に入っている私達は、気はせくが体の方はそううまく運ばない。天井から下がった「Baggage Claim →」の案内板をたよりに遅れながらもひたすら歩く。ようやく私達夫婦、娘のミチコ、孫2人の5人が着いたときには、ほとんどの荷物が乗客に引き取られていたが、やがてコンベアが止まっても、私達の預けた荷物はとうとう出てこなかった。
ミチコがすぐに係員に申し入れたが、彼はただ首を振るだけ、俺は知らんという訳だ。ミチコはさらに事務所へ行き事情を説明したがそこでも分からない。こうして荷物を求めて右往左往しているうちに建物がターミナルBであることがわかった。係員は外に出て他のターミナルに行くようにと教えてくれていたのである。
そこで例の巡回バスに乗ってターミナルEへ行き、地下の隅にあるデルタ航空の荷物引渡所の、そのまた片隅にひっそりと置かれた私達の荷物にやっと対面することができた。
約1時間半のタイムロスと、かなりの労力を費やしてのトラブル解決であった。考えてみると一昨年、中国へ旅したときも、よく似たトラブルに巻き込まれたことを思い出した。この時は、15人の団体で武漢市から北京へ飛んだが、北京空港で荷物がどうしても出てこない。添乗員がすぐに探しにかかり20分後には他の団体と間違って私達の荷物は上海へ、その団体の荷物がこの北京に運ばれたことを突き止めた。こう分かればもう安心である。もっとも実際に届いたのは24時間後であったが。もしこのトラブルが関西国際空港で起こったとしたら、恐らく10分くらいで解決したと思う。なぜなら空港の規模が違うのだから。巨大空港の予期しない落とし穴というものであろう。
|
|
★
|
| このトラブルの元々の原因は、ボストンを出発する際に”航空会社の都合”で、デルタ航空のチケットでトランスワールド航空に搭乗させられたことにあったようだが、それにしても、もしアメリカ在住15年のミチコがいなかったらどうなっていたかと今考えてもぞっとする。
|
|
1963年(昭和38年)、私は約10日間ニューヨークに滞在した。“イレブン・オー・ツー/1102”は、私の滞在したアルゴンクィーン・ホテルのルーム・ナンバーである。
当時の若者ファッションの教祖的存在であったVANジャケットの石津謙介社長を団長とする、メンズ・ファッション・ユニオンの代表10人の団体の一員として訪米した私は、まだ43歳で体力、気力ともに充実していた。
連日、朝から夜まで、時には夜半までミーティング、視察、業者との交流など多忙な日程をこなすために、何度となくホテルを出入りし、フロントでルームキーの受け渡しの度に「イレブン・オー・ツー!」を連発していた。
100年の歴史を持ち、4ツ星ランクながら15階建ての100人程度の収容力の小さなホテルで、エレベーターも手動の2基しかなく、それを操作するのは年配のベルボーイ。
毎日お世話になるその中に明らかに日本人と思われる男がいた。私は同室のS氏と相談して、彼からいろいろと内輪話を聞く機会を持とうと声をかけてみたところ、案の定日本人で、快く応じてくれて勤務終了後、わが“イレブン・オー・ツー”にやってきた。
|
|
|
数杯のアルコールを傾けた彼は、酔うほどに興に乗って時には面白おかしく、時には感慨深くいろいろな内輪話を語り続けた。そのほとんどは36年を経た今、忘却の彼方へ飛んでしまった中で、私の胸に強烈な印象を残した一事がある。彼は19歳の時、新天地で一旗上げることを当然の夢として大志を抱いてアメリカへ渡ってきた。しかし何度かのつまづきの末、得たものはこのホテルのベルボーイという仕事であった。以来40年、第2次大戦中の困難な時期もあったがこの職に真剣に取り組んできた。今、彼は言う。
「二人の娘はそれぞれ家庭を持ち、遠い所ではあるが幸せに暮らしている。私達夫婦の住む部屋は1日のうち2時間も陽が当たり、こんな素晴らしいことはめったにない。私はこのホテルのベルボーイとして誰にも負けない自身を持っている」と言い切った。
|
|
★
|
見事なプロ意識。この自信に溢れた言葉に私達は圧倒され非常な感動を得たものである。
36年前のニューヨーク、古いホテルの一室“イレブン・オー・ツー/1102”での想い出である。
(つづく) |
|
|
|
|