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バークレイの母とは?---
初めにバークレイ市と堺市の交換学生について語っておかねばならない。
ご承知のように両市は姉妹都市として協定を結び、その一環として学生の交換をロータリークラブに依頼してきたのが発端で、1970年からこの事業が始まった。まず堺市の3ロータリークラブで学生を送り出し、翌71年にはバークレイ市からの学生を迎えた。
両市はロータリアンを団長として、15人ほどの学生を派遣、滞在中は全期間ホームステイとして、主として相手国学生との交流を通じて国際理解を深めようとするものであった。
我が堺東ロータリークラブは1972年の創立で、74年には竹中会員のご子孫が76年には故高尾会員のお嬢さんが渡米された。
このように、師弟を参加させるためには、その前後の年のいずれかにアメリカからの学生を自宅にステイさせることが条件になっている。
77年に、私は一人の学生を受け入れることにし、8月、バークレイ市からの一行を迎えた。割り当てられたのはレスリー・キャット(Lelie
Katz)さん、16歳の女子高生。
果たしてどんな娘さんなのか不安の中で彼女との対面を待った。呼ばれて現れたのは小柄で可愛い女の子、おまけに妙なアクセントで「コンニチワ、ヨロシク」と日本語であいさつして、私たちを喜ばせた。
さて、私宅での10日間がスタートしたのだが、16歳とは思えないしっかりした娘さんで、極めて礼儀正しく、うろ覚えの日本語で朝晩のあいさつから食前・食後のあいさつまでキチンとして、私たち家族を感心させた。
ある時、レスリーと私の娘、親戚の子供たちを連れてレストランに行ったときのことである。食事を終わり皆が外へ出たのに、彼女だけは支払いをしている私の側で待っていた。
会計を済ませると、彼女は私に頭を下げて「ドウモアリガトウゴザイマシタ!」と例の妙なアクセントで言ってから、私の後について外へ出た。
このようなことが何度かあって、よほど良い家庭環境で育てられたのだろうと感心させられた。彼女によると、父は弁護士で母は教師。レスリー自身も将来は弁護士を志望している。
一緒に買い物にいくと、「ディスカウント」を連発するので、小遣いをいくら持ってきたのかと聞くと、取り出してきたのは、400$のトラベーラーズチェックと100$そこそこの現金だった。これで両親や妹たちの土産をそろえるのだから大変である。しかもこれはアルバイトで稼いだ金だという。
彼女たちは高校生になってアルバイトで収入を得ると、日曜ごとの教会のミサで喜捨することが習慣になっており、貧困に苦しむ人々を自分の力で応分の援助をすることを、子供の時から躾けられているようだ、こうして彼女は私たちの胸に数々の思い出を残して帰国していった---。
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翌、'78年、娘のミチコが派遣団の一員としてバークレイに行った際には、レスリーの家にステイしてお世話になったことはいうまでもないし、翌々年には家内がアメリカ旅行の途次に娘二人と共に3日間、お世話になって帰ってきた。
毎年、繰り返された交換学生事業も'92年、堺市を訪れる学生が底をついて中止され、バークレイとも疎遠になっていった矢先の'97年5月、次女の洋子の家にレスリーから電話が入った。聞くとサンフランシスコ代表団の一員として姉妹都市・大阪市を訪れ、国際交流会館での行事に参加しているというので次女宅に招くことにし、翌日の夕刻、迎えに行った次女夫婦と共にレスリーが姿を現した。
ようこそレスリー!20年の歳月はあの可愛い少女を落ち着いた物腰のレディに変えていたが、しばらく談笑しているうちに20年前のレスリーに戻ってきた。現在は有能な弁護士となり、サンフランシスコ市当局のスーパーバイザーとして活躍。父親は3年前に亡くなり母親が教員として生計を立てているという。2日後、関西国際空港に帰国する彼女を見送ったが、もしアメリカを訪れることがあれば、ぜひ立ち寄ってほしいと何度も繰り返してバークレイに帰って行った。
今回、私たちの訪米に際しサンフランシスコでの日程を知らせると、あいにく彼女はオーストラリア出張で不在になるが母親がぜひ会いたいからとの返事があったが、英語のわからない私たち3人では・・・と二の足を踏んでいたところ、次女の知人の息子である荻野君がサンフランシスコに留学中とのことで通訳を快諾してくれた。
9月8日、予定通りサンフランシスコ空港に到着。荻野君が出迎えてくれた。ユニオンスクエア前にある「ザ・セントフランシス・ホテル」にチェックイン。市の中心部にあり伝統のある風格高い雰囲気に包まれたホテルである。早速、荻野君がレスリーの母親に電話して、9月10日に会うことになった。
その日の夜、私たち4人は「Wellcome Mrs.Katz」と大書した紙を掲げてホテルの前で母親を待った。なぜなら顔を知ってるのは家内のみ。それも20年前も前のことだから。前の道路には名物のケーブルカーが走り、車の列で溢れていた。その列の中から1台が抜け出して停まった。家内が声を上げた「彼女よ。ちっとも変わってないわ!」
彼女が予約してくれた中華料理店に着き、食事をしながら話が弾む。気さくな人柄とは聞いていたが、まるで、100年の知己のように笑いの絶えない和やかな席となった。通訳に忙しい荻野君は食べるヒマもないので、会話を一時中断して食べてもらうことにした。ところがその間もレスリーの母親と家内が、手を握り肩を叩き合い、大笑いしながら大いに喋りまくっている?もちろん互いに分かるはずのない英語と日本語で!通訳の荻野君は言う「凄いですね。あれで十分通じているんですよ!」私たち男3人は呆気にとられてただひたすら食べることに専念した!ふと気が付くとあの満員だった店内には私たち5人だけ。会計はレスリーの母親が引き受けてくれて、申し訳ないことになった。
やがて5人を乗せた車は深夜のシスコを疾走する。急坂の市街を通り抜けて真っ暗な海岸通りの中で、ここだけは煌々と灯が輝くフィッシャーマンズワーフに着く。何度か来たが夜の訪問は初めてだ。昼間なら海の向こうに監獄島アルカトラズや金門橋、ベイブリッジなどが一望できるが、今は暗闇の中で波の音だけが耳を打つ。記念写真を撮りホテルに向かう。途中のビジネス街ユニオン通りも車も減っていない。
やがてホテルに着き、別れの握手をして彼女は手を握りながら車をスタートさせた。が、すぐにまた停止して降りてきた。一瞬、忘れ物かなと思ったら、もう一度私たちと固く手を握り合ってから暗い坂道を下っていった。時にはもう午前0時、これから再び海岸通りに出てベイブリッジを渡り、オークランドを経てバークレイまで約一時間の道程。今夜の出会いを彼女が本当に喜んでくれたことを信じて帰途の無事を祈りながら部屋に戻った。
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帰国後、ささやかな品物を贈ったところ丁寧な礼状が届いた。もちろん英文だから、これは3人の孫が懸命に翻訳してくれて、ようやく読むことができた次第。
Mrs.Etselle Katz 66歳。バークレイの母!
---"So long, Good Luck!"
(つづく) |
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